夢の国の猫獣人

オリジナル現代ファンタジー小説

オリジナル小説「夢の国の猫獣人」

第1話 猫獣人の都市伝説
 この城下町には都市伝説がある。それは、「夕刻に散歩をしていると猫獣人と出会う」というものだ。
 お昼休み。クラスメイトの雑談がその話題になっていた。
「そんな事、あるわけないよね」
「阿保らしい。夕刻だから何か見間違えたんだよ」
「それ、幻覚ってやつ?」
「くだらねえな」
「何か悩んでるから見えないものが見えたりするんだよ」
「そうそう。こないだ先生も否定してただろ。そんなものいる訳ないって」
 私は、そんなクラスメイトの話には入り込めない。だって、確かに見たって証言が幾つもあるからだ。彼らが嘘つきだとは到底思えない。
「おい、亜希(あき)。お前はどう思うんだ?」
 突然、私に話を振られた。
「私は信じてる。あの人たちが嘘ついてたって思えないから」
「あのさあ。お前、妙な噂を流すと処分されるぞ」 
「黒瀬君。処分って何よ」
 彼の名は黒瀬翔馬(くろせしょうま)でニックネームはペガサス。翔(とぶ)馬だからペガサスらしいんだけど、自分で言いだしてるってところがダサいと思う。
「さあ? 色々あって転校したりってことかな?」
 露骨だ。
 彼の父は老舗旅館の経営者で、この街の観光協会の会長も務めている。母親はPTAの会長だし、祖父は県会議員もしてる。有力者の一族って事。彼らは、最近この城下町で囁かれている猫獣人の噂が気に入らないようで、目撃証言を徹底的に封じ込めようとしているらしい。実際、クラスで猫獣人を見たって言ってた子は転校しちゃったんだ。他の学年にもそういう子がいるらしい。
「ま、口には気をつけろよ。忠告はしたぞ」
「余計なお世話よ」
 本当に余計なお世話だ。
「にゃあ」
 猫? 猫の鳴き声?
 しかも私の脚元で?
 机の下を覗いてみたら、三毛猫がいた。多分この子は雄。だって、顔つきが精悍だから。三毛猫の雄は珍しいって話なんだけど、私の脚元にしっかりいるじゃない。
「にゃあーん」
 また鳴いた。その猫はぴょんと飛び跳ねて、私の膝の上に座った。
 え? これは困るよ。今から授業だし、教室に猫を入れたりしたら先生に叱られてしまう。
「にゃあ」
 その三毛猫は私のお腹に顔をこすり付けて来た。完全に寛いでいるし……私の膝、そんなに気持ちがいいの? 
 先生が教室に入ってきた。
 これは困る。でも、この三毛猫は私の膝から動こうとしない。私は焦って周囲を見るのだが、誰もこの猫に気づいていない。さっきから「にゃあにゃあ」と鳴いているのに。
 何で? 誰も気づかないの?
 こうなったら開き直るしかない。見つかったらその時だ。もしそうなったら先生に言ってこの猫を外に出してもらうしかない。
 しかし、その機会は訪れなかった。国語の授業中ずっと、三毛猫は私の膝の上から動かなかったし、途中からはすやすやと眠っていた。いい気なものだ。
 授業が終わり、国語教師の柏原(かしわばら)先生が教室を出て行った途端に膝が軽くなった。今まで私の膝の上で寛いでいたはずなのに、あの三毛猫はいなくなっていた。
 夢でも見ていたのだろうか。そう思って膝の上、紺色のスカートを確認してみると、そこにはしっかりと猫の毛が残っていたのだ。
 夢じゃなかった。あの三毛猫は何だったのだろうか。もしかして猫の幽霊かもしれない。しかし、あの猫のお陰様で私は授業が身に入らなかった。これは家に帰ってから復習しないといけない事が確定したのだ。

第2話 不思議な三毛猫
 放課後になってから、私の所に一年生の女の子が伝言に来た。私は音学部に所属しているのだが、顧問の先生が出張してるから今日の部活は休みになったとの事だ。既に、幽霊部員になっている私の所にも律儀に伝言を寄こして来たのは、音楽部部長、清志郎の指金だろう。
春若清志郎(はるわかきよしろう)は音楽部の部長で、中学生のくせに長身で渋い低音が魅力的なイケメンだ。部活の名前は音楽部なんだけど、やっている事は混声合唱。部員は50名くらいで結構大所帯なんだけど、男子は15名くらいで全体の三分の一くらいしかいない。清志郎は啓二と仲が良かった。
 後河原啓二(うしろがわらけいじ)。彼とは二年前、私から告白して付き合い始めた。今と同じ、夏みかんの花が香る五月の事だった。半年ほどの短い期間だったけど、付き合っている時は幸せだった。でも、彼は亡くなってしまった。その後、私は歌えなくなった。そして部活には顔を出さないまま一年半が過ぎていた。
 私は道草もせずに自宅へ戻った。いつもなら部活を無断で休んだという罪悪感があったのだが、今日はそれがない。少しだけ気分が清々しいのは不思議だ。
 ちょっと新鮮な気分になった私は、海を眺めようと思い立ち散歩に出かけた。堀内地区を横切って海岸沿いの石彫公園まで歩く。片道15分ほどの距離だ。
 土がそのまま塗り込んである土塀にそって海を目指して歩く。しかし、30分以上歩いているのに海にたどり着けなかった。自宅の近所、知っている場所のはずなのに、私は迷子になってしまったようだ。
 城下町は概ね碁盤の目のような、整然とした区画になっている。ところどころに鍵曲(かいまがり)のような、迷路的な路地も存在しているのだが、それでも袋小路になっている場所はない。東西南北どこへでも、真っすぐ進めば知っている場所か大通りに出るはずなのだ。しかし、いくら歩いてもそんな気配はない。
 民家もなく、コンビニもなく、繁華街や商店街も見えない。見えるのは朽ちかけた土塀と、その向こうに茂っている夏みかんの木だけ。その夏みかんの木には、初夏を彩る白い花がたくさん咲いていて、付近に甘い香りを漂わせている。
 もう日が落ちる。あたりには街灯すら見当たらない。夕闇に包まれ、次第に真っ暗になっていく。さすがに途方に暮れた。
「お嬢さん。どうされましたか?」
 後ろから声をかけられた。男の人の声だった。突然だったので驚いてしまったのだが、人と出会えた事に安堵した。そして振り向いてからまたビックリした。そこにいたのは三毛猫だったからだ。
 それは、今日の授業中に私の膝の上に乗っかってきたあの三毛猫だと思う。あの三色の模様、黒と茶の配置には見覚えがあった。しかし、本当にこの三毛猫が喋ったのだろうか。
「そんなに驚かないで。私の名前は藤吉郎(とうきちろう)です」
 信じられないんだけど、猫が喋っている。しかも、どこかの武将みたいな名前にも違和感があった。しかし、意を決して私も挨拶した。
「私は亜希(あき)、亀山亜希(かめやまあき)。中学三年生です」
「そう。その制服は西中だね。家は近所なのかな?」
「はいそうです。堀内一区です」
「ほう。本当に近所だ」
 藤吉郎と名乗った三毛猫はニコニコと笑っている。本当に嬉しそうだ。私は思わず、彼に質問した。
「ここは何処? どうしてあなたは人間の言葉が喋れるの?」
 三毛猫獣の藤吉郎はフッと笑って尻尾を振った。
「ふふ。亜希お嬢様。今夜、貴女をアドリアーナへご招待いたします」
 藤吉郎は尻尾を振りながら土塀の方へ歩き始めた。そして振り向いてあごをしゃくる。
「さあ亜希さん。こちらですよ」
「わかりました」
 三毛猫の藤吉郎はそのまま土塀に向かって歩いていく。するとその壁にぽかんと大穴が空き、藤吉郎はその穴をくぐって向こう側へと歩いて行った。私も藤吉郎に続いた。そこにあるはずの夏みかんの木は一本もなく、江戸時代の古めかしい街並みが広がっていた。
 その江戸時代の街並みの中で、藤吉郎の体が不意に大きくなっていく。彼は二本足で立ち、身長も私より大きくなってしまった。
 顔は三毛猫そのまんま。しかし、いつの間にか立派な背広を着ているし、二本足で立ってる足元は、磨かれたきらりと光る革靴を履いていた。そして、お尻からは三色の長い尻尾がゆらゆら揺れている。ヤバイ。あの三毛猫が噂の猫獣人だったんだ。 

第3話 夢の国アドリアーナ
「藤吉郎さん?」
「はい」
「あなたは、授業中、私の膝の上でお昼寝していた三毛猫ですよね」
「そうです」
「何故、授業中に私の所に来たの? ここはどこなの?」
「ははは。二つ同時にも質問されても困りますね。まず、昼間あなたに会いに行ったのは、ここに招待するのに価する人物かどうかを確認させていただいたからです。ここは夢の国アドリアーナですよ」
 ああ、そうなのか。私は猫獣人の都市伝説を否定しなかったし、むしろ信じていた。それを確認したかったんだ。でも、夢の国って何なのだろうか。
「夢の国?」
「ええ。言い方を変えるなら潜在意識の世界。まあ、現実世界と霊的世界の間(はざま)となります」
「えーっと。わかんないんですけど」
「そうでしょうね。夢の世界に迷い込んだ、と思っていただければ結構ですよ」
「夢の世界……って、神隠しみたいな? 私、家に帰れるの?」
「亜希さん落ち着いて。私の仕事はね。アドリアーナに人間を招待する事なんです。それとは別に、ここに迷い込んでくる人間を助ける事も大切な仕事なんですよ」
 一応、筋は通っているような気がする。私は藤吉郎の言葉を信じることにした。
 暗くなった路を、藤吉郎はすたすたと歩いていく。私は彼について行った。あたりはすっかりと暗くなっていたが、所々に吊るしてある提灯のあかりで歩くのに不自由は無かった。とある屋敷の中から笑い声が聞こえてきた。門が開いていたのでちらりと覗いてみたら、中庭で大勢の人がお酒を酌み交わし料理を食べていた。人って言うか、みんな猫獣人だったんだけど。
「さあさあ、こちらですよ」
 三毛の藤吉郎に案内されるまま夜道を進む。突き当りには、こじんまりとしているけど立派な洋館が建っていた。私たち二人はその中へと入っていく。
「いらっしゃいませ!」
 元気のよいスタッフに声をかけられた。彼は茶トラ猫獣人だった。オレンジ色の縞模様が可愛らしい。まだ若い男性ってイメージ。脇にあるカウンターには、落ち着いた雰囲気の黒猫獣人がいた。彼がこの店のマスターかな。そして奥の調理場からは胸元が豊かな白猫獣人が出て来た。妙に色っぽい。まだ胸の膨らみが貧弱な私は、かなりの衝撃を味わう。猫に、猫獣人に胸のサイズで圧倒的な劣等感を与えられるとは……。いや、この事は考えまい。
「今夜は月がきれいよ。庭のお席はいかがかしら」
「そうですね」
 白猫獣人の言葉に藤吉郎が頷いていた。茶トラ猫獣人に案内され、私と藤吉郎は庭に設置された席に着く。
「あの……」
「なんでしょう。亜希さん」
「私、家に帰らないと。お母さんが晩御飯作って待ってるから」
「大丈夫ですよ。ここでの一時間が向こうでは一分なんです。ここでお食事をしてお茶を飲んでゆっくり過ごしても、向こうの世界ではほとんど時間は経過してませんから」
「え? そうなんですか?」
「そうですよ。だから、ここでお腹いっぱい食べても大丈夫。お家に帰るころにはまたお腹が空いてますから」
「わかりました」
 白毛のグラマーな猫獣人のお姉さんが、お水とメニューを持ってきてくれた。茶トラ君は表に出て営業中の看板を立てていた。そして、黒猫のマスターがレコードをかけ、音楽が流れ始めた。
 その音楽は、オーケストラの演奏だけど「めりーさんのひつじ」だった。この雰囲気なら大人っぽいクラッシックとかジャズとか、そんな音楽が似合うイメージだったのでちょっとズッコケてしまった。しかし、猫獣人が闊歩する夢の国なら童謡だって似合うと思った。

第4話 洋館のカフェ
 音楽は「ロンドン橋落ちた」に変わった。これはアレだ。イギリスでマザーグースって言われてる童謡。へへへ。こないだ音楽の授業で習ったばかりだからちゃんと覚えてた。
「はーい、どうぞ」
 白猫のお姉さんがケーキと紅茶を持ってきてくれた。食事もできるって聞いてたけど、やっぱり甘い物が欲しかった。
 大きなイチゴが乗っかっているショートケーキ。生クリームもたっぷりだ。しかしふと気づいた。私、財布を持ってきていない。
「お金は不要ですよ」
 察しの良い藤吉郎が質問する前に答えてくれた。
「さあ食べて。美味しかったって感謝してあげたらOKです」
「本当に?」
「ええ。ここではお金は不要。感謝の気持ちが大事なんですよ」
 三毛の藤吉郎が頷いている。奥のカウンターの中で、黒猫獣人のマスターも笑顔で頷いていた。
 私は遠慮なく目の前のショートケーキを平らげる事にした。藤吉郎はコーヒーの香りを楽しみながらゆっくり飲んでいた。猫獣人だから猫舌なんじゃないかって少し心配したんだけど、問題ないみたいだった。
 新鮮な甘酸っぱいイチゴと、甘くてふんわりした生クリームの絶妙なマッチングが素晴らしい。紅茶の方は……まあ、よくわかんないんだけどイイ感じの香りが漂ってる。私は容赦なくミルクと砂糖を入れて飲む。なんだか高級品っぽい味がした。詳しい人なら葉っぱの種類とかもわかるのだろうけど、私にはさっぱりだ。
「実はですね」
 三毛の藤吉郎が話を切り出してきた。
「私の仕事は先ほどお話した通り、このアドリアーナに人間を招待する事です」
「はい」
「そうする理由はですね。人々の潜在意識の中からこのアドリアーナが消えてしまわない為に、定期的に招待させていただいています」
「それはもしかして、人間が夢を見るからこの世界が存在しているって事ですか?」
「ご名答。ごく少数の人で結構なのですが、時々こちら側に来ていただいて楽しい経験をしていただいて、それを夢の中で繰り返し経験してもらうためです。そうする事でこのアドリアーナが存続していきます。でも、今夜は違います。とある用件があって、亜希さんに来ていただいたのです」
 用件って何だろう。心当たりはなかった。
「何ですか? その用件って」
 藤吉郎がパチンと指を鳴らした。すると、店の奥から一人の猫獣人が現れた。ちょっと小柄でサバトラ模様、シルバー系の縞模様が美しい猫獣人がこっちに向かって歩いてきた。彼はキチンと礼をして、椅子に腰かけた。
「僕の名前は啓二です。後河原啓二(うしろがわらけいじ)」
 その名前を聞いた時、私は激しく動揺した。顔面も蒼白になっていたに違いない。
 彼は中学一年生の時、私と同じクラスだった。色白で可愛らしい男の子で、ゴールデンウイーク明けの今と同じ五月中旬に私の方から告白した。そして彼はOKしてくれた。その後、私と彼は付き合い始めたんだ。でも、彼は半年後に交通事故で亡くなった。それは思い出したくもない記憶だけど、心の奥にしっかりと刻み込まれていた。

第5話 声楽と童謡と死後の世界
 音楽は「10人のインディアン」から「ふるさと」にかわった。西洋のマザーグースから日本の童謡になったわけだ。この曲には思い入れがある。
 私と啓二君は音楽部に所属していた。名称は音楽部だけど実際やっていたのは混声合唱だ。秋に開催される文化祭には何曲も披露するんだけど、優秀な生徒数名は独唱で参加する。啓二君はまだ一年生なのにその独唱メンバーに選ばれた。彼が選んだ曲がこの「ふるさと」だった。
 声変わり前だった彼のボーイソプラノは、この曲と非常に相性が良かった。こんな美しい声には到底かなわないと、当時の私は率直に感じていた。
 でも、文化祭の直前に彼は交通事故で亡くなった。「ふるさと」はみんなで合唱したんだけど、殆どの子が途中で泣いちゃって歌えなくなって、最後は先生のピアノ伴奏だけになった。
「亜希ちゃん。ごめん」
「謝ることないよ。啓二君」
「でも、亜希ちゃん今にも泣きそうだから」
「ごめん。ちょっとびっくりしただけだから」
 これは強がりだ。本当は胸が張り裂けそうで、今にも泣きだしたかった。でも、疑問だらけで泣くどころじゃなった。亡くなったはずの啓二君が何でここにいるの? 何で猫獣人になっているの? わからないことだらけだ。
「亜希さん。混乱させて申し訳ない。私の方から説明しましょう」
 私は藤吉郎の申し出に頷いた。
「先ほども説明しましたが、ここは瀬在意識の世界であり、間の世界なのです」
「はい」
「死後の世界に赴けない人が一時的に滞在することができる場所でもあります」
 藤吉郎の説明は続く。天国と地獄は実際にあって、通常は死後しばらくするとそのどちらかに赴く事になる。善人は天国へ行き、悪人は地獄に落ちる。でも、どちらにも行けない人もいる。それは、この世に未練を残している人、強い執着を持っている人なのだそうだ。
「幽霊とか地縛霊とか、そんな風に言われる人たちですね」
 そういう話は聞いたことがある。
「え? じゃあ、啓二君は幽霊なの? 藤吉郎さんは地縛霊?」
「違います」
 私の疑問は即否定された。
「そういう幽霊とか地縛霊にならないように、ここで保護しているのです。長く人間界に居座ると妖怪化しますからね」
「え? 妖怪って、元々は人間だったの?」
「そうですよ。長い年月を重ねて動物霊と一体化したり、自然の霊気と一体化したりするんです。人の怨念を取り込んだりする者もいて形態は様々ですが」
「じゃあ、藤吉郎さん達も妖怪なんですか?」
「ふむ。神仏や悪魔とは別の霊的存在という意味では同類なのですが、私たちは一応、神仏のお手伝いをする立場なのです」
「じゃあ天使って事?」
「そういう言い方もできますね」
 藤吉郎さんは笑顔で頷いている。
 うーん。猫獣人と天使って、似ても似つかない気がするのだけど。でも、仏教では馬の頭の観音様もいて畜生道に堕ちた人を救済してるって話も聞いたことがある……って言うか、これコミックで得た知識だから合ってるのかどうか自信がなかった。

第6話 ふるさと
「それ、大体あってますよ」
「コミックで読んだ馬頭観音さまの事?」
「ええ。そんな理由で、この界隈の住人はみんな猫獣人なのです」
 完璧に心を読まれている。猫獣人もだけど不思議な話だ。なかなか納得できそうにないのだけど、納得するしかない。
「それでね、啓二君は未練を残して亡くなってしまった。だからそこをスッキリさせてからあの世に旅立ちたいという希望をね。叶えたい訳です」
「そっか。そうなんだ」
 私はそう言って啓二君を見つめる。彼は恥ずかしそうに懐から手紙を取り出し、それを私に手渡した。
「本当はこんな事はしちゃいけないんだけど」
 彼の毛並みはサバトラなんだけど、何故だか真っ赤になっているのが分かった。見た目の毛は銀色なんだけど。そして啓二君は立ち上がって向こうに歩いていく。庭の片隅にはグランドピアノが置いてあって、智君はそのそばに立つ。ピアノを弾くのはあの胸の大きな白猫獣人のお姉さんだった。ピアノ伴奏が始まり、彼が歌い始めた。曲はあの「ふるさと」だった。

 兎(うさぎ)追いしかの山
 小鮒(こぶな)釣りしかの川
 夢は今もめぐりて
 忘れがたき故郷(ふるさと)

 相変わらず美しい声。透き通るボーイソプラノは昔のままだった。歌っている彼の姿がだんだんと人の姿へと変わっていく。当時のまま、二年前のあの頃のままの姿になった。

 如何(いか)に在(い)ます父母
 恙(つつが)なしや友がき
 雨に風につけても
 思い出(い)ずる故郷(ふるさと)
 
 間奏の間に、彼の姿が成長し始めた。背が伸びて体が二回りも大きくなった。そして歌声も太めのバリトンに、声変わりした大人の声になっていた。

 志(こころざし)をはたして
 いつの日にか帰らん
 山は青き故郷(ふるさと)
 水は清き故郷(ふるさと)

 いつの間にか周囲には人だかり……と言ってもみんな猫獣人なんだけど……ができ、演奏が終わったと当時に拍手喝采が沸き起こった。私はというと、両目に涙が溢れて止まらなかったのだけど、思いっきり両手を叩いていた。

 啓二君は私より背が低かった。今は私も背が伸びたのだけど、彼はもっと伸びていた。そして顔つきは精悍な感じになって、体つきも逞しくなって、きっと、生きていたらこんな感じに成長していたのだろう。あの当時のボーイソプラノも美しかったけど、今のバリトンも心に響く大人の歌声だった。
 その、逞しくなった啓二君に、あの白猫獣人のお姉さんが抱きついて頬にキスをした。彼が一気に大人びたからか、何故か嫉妬はしなかった。
 彼は私の方にゆっくりと歩いて来て告げる。
「亜希ちゃん。もう行かなくちゃいけないみたいなんだ」
「うん」
「良い人を見つけて結婚してほしい」
「うん」
「あっちじゃ多分忙しいから、見守ってあげられないと思う」
「うん」
「できれば聖歌隊で歌っていたい」
「うん」
「亜希ちゃんも、歌を続けて」
「うん」
「じゃあ」
「うん」
 私はハンカチで涙を拭きながら、うんうんと頷く事しかできなかった。
 しばらくしたら、空から光り輝く馬車が走って来た。四頭の白馬に引かれた黄金の馬車だった。その馬車は庭に降りてきて止まった。御者は猫じゃなくて狐の獣人だった。彼は帽子を取って私に向かって挨拶をした。そして啓二君に馬車に乗るように促した。啓二君を乗せた馬車は走り始め、宙に浮き空の彼方へと消えて行った。猫獣人たちの拍手と歓声は、しばらく鳴り止むことがなかった。
「亜希さん。今日は本当にありがとうございました」
 三毛の藤吉郎が深く礼をした。私も彼にお辞儀をした。何か胸の中のもやもやが取れてスッキリした気分だった。

第7話 幸福の猫獣人
「では、元の場所へとご案内しましょう」
「はい」
 藤吉郎に手を引かれ、私は元の場所へと戻っていた。そこは堀内にある鍵曲(かいまがり)。左右を高い土塀で囲んで、道を直角に曲げた独特な道筋のこと。江戸時代、城下防衛のために作られた場所だ。ここにアドリアーナへの入り口があったんだ。藤吉郎はすっかり猫の姿に戻っていた。
 私は三毛猫の藤吉郎を従えて自宅に戻った。ちょうど日が暮れた時刻で、夕食まではもう少し余裕があった。私は啓二君から受け取った手紙の封を切った。中の便せんには謝罪と後悔と感謝の言葉が並んでいた。事故で死んでしまい迷惑をかけたと。そして、自分が歌うはずだった「ふるさと」を皆で歌ってくれてありがとうと。そうしているうちに、その手紙は黄金色の光に包まれて消えてしまった。
 そうか。この手紙も啓二君の執着だったのか。でも、消えてしまったという事は、執着も消えてしまったと。そういう事なのだろう。啓二君。良かったね。
 私は安心して胸をなでおろした。
 そして一階に降りて冷蔵庫を漁る。魚肉ソーセージを一本見つけて裏口のあたりをきょろきょろと探してみる。いた。三毛猫の藤吉郎が。
 私は魚肉ソーセージの皮を丁寧に剥いて、そして食べ易いようにちぎって藤吉郎に食べさせた。彼は美味しそうにソーセージを貪る。しかし、人語は喋らず「にゃあにゃあ」と猫みたいに鳴くだけだった。

 その後、藤吉郎は私の家に居ついてしまった。そして毎日、学校にもついて来た。校庭を散歩したり教室に入り込んだりしているのだけど、私の膝の上でお昼寝をしたりもする。しかし、彼の事は誰も気づかないのは不思議だ。
「お前は馬鹿か? 猫獣人なんていないんだよ」
「でも、弟が見たって言ってるんだ」
「お前の弟、目が悪いんだよ。眼鏡の度が合ってないんじゃねえの」
「確かにあいつの視力は悪いけど、人と猫獣人を見間違えたりはしない」
「なあ。桐坂(きりさか)。俺に逆らうなよ。猫獣人はいない。いないんだよ」
「あ……そ……うかもな」
「そうだ。いないんだ」
 ペガサスが強引に情報操作をしていた。桐坂君の弟は体が弱くて視力も悪く、眼鏡を掛けても人並みには見えないらしい。
「ねえ藤吉郎。本当はどうなの? 桐坂君の弟、あそこに行ったんでしょ」
「そうですね。ついこの前、桐坂季節(きりさかきせつ)君をアドリアーナに招待しました。彼は体が不自由なのに、発想が豊かで勉強熱心。将来有望ですよ」
「未来がわかるの?」
「まあ、そうですね」
「ペガサスをぎゃふんと言わせてやりたいの。あいつ、猫獣人を見たって人を徹底的に攻撃するんだ」
「知ってます。確かに由々しき問題ですね」
「このままほっとくと、アドリアーナの存続に関わるんじゃないの」
「ご指摘の通りです。どうしましょうかねえ」
 などと言いながら、私の膝の上で大あくびをしている藤吉郎である。彼は面倒くさそうに床に降りて、何と教室の中で猫獣人の姿へと変身した。そしてペガサスの右手を握ったんだ。
「何だお前は」
「貴方が存在しないと力説している猫獣人です」
「そ、そんな馬鹿な! 猫獣人なんているはずがない!」
「そんな事はありませんよ。現にこうして、貴方の右手を握っているわけですから」
「嘘だあああああ!」
 大声で叫んだ後、ペガサスは気絶して倒れてしまった。お昼休みの教室内で起こった突然のハプニング。でも、猫獣人の藤吉郎が見えていたのは私とペガサスだけで、他のみんなには見えていなかったらしい。ペガサスは「独り芝居」「ダサい」「馬鹿じゃねえの」とか言われ笑われていた。
 その後、黒瀬君(ペガサス)は病院に運ばれて統合失調症と診断され、しばらく学校を休んでいる。ちょっと可哀そうだと思ったけど、彼は散々他の人をいじめていたので自業自得だろうね。
 そして私は音楽部へと足を向けた。一年半も無断で休んでいた私を、みんなは温かく迎えてくれた。部長の清志郎も笑顔で握手してくれた。藤吉郎と出会い、心が軽くなったんだろう。私は気持ちよく歌えるようになっていた。
 藤吉郎はあれから、猫獣人の姿を見せてくれることはなかったのだけど、猫獣人の都市伝説は消えることなく語り継がれていた。それには、三毛の猫獣人に出会うと幸福になれるって尾ひれが付いていた。
 
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